
村上春樹の『
走ることについて語るときに僕の語ること』を読みました。私より年上なのに、フルマラソンを3時間台で走る、贅肉はない、髪はある、という許し難い人物の本です(笑)。
村上春樹は作家活動が本格化した33歳のとき、健康維持のために走り始めました。最初は20分か30分走るのが精一杯だったようですが、以来25年、毎年1回のペースでフルマラソンを走り続けています。トライアスロンも100kmマラソンも完走し、いまや筋金入りのランナーです。
5時間の壁が破れないジョガーの私ですが、この人のように毎日走り続ければ、4時間を切ってランナーの仲間入りができるかもしれないという気になりました。乗せられやすい私は、読後、一気に6大会(長短とりまぜて来年1月~3月)にエントリーしてしまいました。
フルマラソンを完走するためのノウハウ(特にコンディショニング面)も学べますが、もちろんただのランニング日記ではありません。走ること、生きること、書くことについての省察の書で、人生を走り続けるためのヒントがあちこちに散りばめられています。いくつか抜き書きしてみます。
●走ること
僕は走りながら、ただ走っている。僕は原則的には空白の中を走っている。逆の言い方をすれば、空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。(p.32)
筋肉は覚えの良い使役動物に似ている。注意深く段階的に負荷をかけていけば、筋肉はそれに耐えられるように自然に適応していく。(p.100)
●継続と集中
継続すること――リズムを断ち切らないこと。長期的な作業にとってはそれが重要だ。(中略)弾み車が一定の速度で確実に回り始めるまでは、継続についてどんなに気をつかっても気をつかいすぎることはない。(p.16)
本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分のなかにきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。(p.58)
結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。(p.231)
●心とからだ
健康な自信と、不健康な慢心を隔てる壁はとても薄い。(p.79)
筋肉の特性は、専門的なことはよくわからないけれど、ある程度まで生まれつきのものではないかと思う。そしてそのような筋肉の特性は、そのまま僕の精神的な特性に結びついているような気がする。(中略)僕に言えるのは、人には生まれつきの「総合的傾向」のようなものがあって、本人がそれを好んだとしても好まなかったとしても、そこから逃れることは不可能ではないかということくらいだ。傾向はある程度まで調整できる。しかしそれを根本から変更することはできない。人はそれをネイチャー(性格)と呼ぶ。(p.117)
●書くことと走ること
小説を書くことは、フルマラソンを走るのに似ている。(p.23)
小説を書くのが不健康な作業であるという主張には、基本的に賛成したい。我々が小説を書こうとするとき、つまり文章を用いて物語を立ち上げようとするときには、人間存在の根本にある毒素のようなものが、否応なく抽出されて表に出てくる。作家は多かれ少なかれその毒素と正面から向かい合い、危険を承知の上で手際よく処理していかなくてはならない。(中略)それはどのように考えても「健康的」な作業とは言えないだろう。
(中略)
しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。(中略)そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可ではないエネルギーが必要になる。(中略)我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか?
(中略)
真に不健康なものを扱うためには、人はできるだけ健康でなくてはならない。(p.133-135)
●生きること
与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。(p.115)
あるだけのもので我慢する。何かがあるだけでもありがたいのだと思う。そんな風に思えるのは、年を取ることの数少ないメリットのひとつだ。(p.119)