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![]() ![]() ![]() ![]() アーサー・アッシュは黒人として初めてウィンブルドンを制したテニスプレーヤーであり、プロスポーツの世界で頂点を極めたトップ・アスリートである。しかし、彼の自伝『静かな闘い』(NHK出版)は、コート上での闘いの記録ではない。引退後の第二の人生における闘い、とりわけ、エイズ感染判明から49歳という早すぎる死までの4年半の闘いの記録である。コートの勇者は人種差別と闘い、その人種差別を言い訳にするアフリカ系アメリカ人と闘い、エイズと闘った。 ■アッシュとマッケンロー 1979年に心臓発作を起こし、80年に37歳で現役を引退したアッシュは、81年にデビスカップ・チームの監督となり、米国を2年連続で優勝に導いた。訳書で400ページを超える自伝のなかでテニスに割かれたページは少ないが、デビスカップの3年間については比較的詳しく書かれている(意外にも、コナーズを破ったウィンブルドン決勝戦についてはほとんどスペースが割かれていない)。 とくに興味深いのは悪童マッケンローとの関係である。節度と礼儀を重んじるアッシュは、デ杯監督就任早々、わがまま放題のマッケンローと激しく対立する。就任初年のアルゼンチンとの決勝戦。試合中、口汚く審判や相手を罵ってチームの品位を貶めた天才プレーヤーに対し、アッシュは、もういちどやったらチームは棄権すると通告する。次の試合でマッケンローは感情を抑えて勝利し、米国に優勝をもたらした。 このときアッシュは、「自分の奥底にも彼(マッケンロー)と同じような性格がある」のではないかと感じ、「マッケンローが、私には抑えることしかできない感情を形に表してくれている」のだと気づく。マッケンローへの怒りは静まり、尊敬と愛情が芽生えた。 3連覇のかかった83年、こんどは米国は初戦でアルゼンチンに敗れ、マッケンローもビラスになす術なく完敗する。その試合の第3セット、1-4とリードされてベンチを立ったマッケンローはアッシュに向かって、「監督、何かよい知恵を授けてもらえませんか」と言った。そのときのことを回想して、アッシュはこう書いている。「私は笑い、彼は敗北した。あの時が二人の気持ちがいちばん通い合った瞬間だったと思う。ときには勝利より敗北のほうが美しく、満たされることがある」 ■より高いゴールをめざして 1983年、アッシュは2度目の心臓手術を受け(このときの輸血でエイズに感染)、デビスカップの監督を辞任する。健康上の理由というより、「仲間のアフリカ系アメリカ人の力になりたい」という願いからであった。「テニスコートで成し遂げたことのほかに何かをしたいと思った。神は私をテニスボールを打つためにだけこの世に送り出されたのではないはずだ」 アッシュには、南アフリカの黒人がアパルトヘイトに苦しんでいたとき、警察の放水を浴びることなく芝の上でテニスをしていた自分を責める気持ちがあった。そんな意識を重荷と感じながら、しかしそこから逃げることはせず、アフリカ系アメリカ人の地位向上のために邁進した。高度な医療にあずかれる自分の特権的な状況にも安んじることができず、無保険者の医療改善に取り組んだ。 若者を教えることにも取り組んだ。名門イェール大学から提示された教職を断り、黒人だけのフロリダ・メモリアル・カレッジで教える道を選ぶが、学生たちのあまりにも低い学力と努力放棄の姿勢に落胆する。学生に誇りを取り戻させる講義の素材として黒人アスリートの活躍の歴史を調べようとしたが、あまりの情報の少なさに愕然とする。そこでスタッフを雇い、30万ドルもの私費を投じて地道な資料集めと聞き取り調査を行ない、アフリカ系アメリカ人アスリートについて書いた全3巻の『栄光への険しい道』(A Hard Road to Glory)を出版した(ネルソン・マンデラは獄中でこの本を読んでアッシュを知り、2人は後に交流を深めた)。 ほんの数例を挙げたにすぎないが、アッシュは多くの働きを、病と闘いながら、絶望に屈することなくやってのけたのである。 ■死と闘いながらの社会貢献 1983年のエイズ感染(感染を知るのは88年)から93年に死を迎えるまでの10年間、アッシュは「プロの患者」として病気と闘いながら、数々の社会貢献を行なった。 「人生の新たな段階に深く入っていくにつれ、私は自分のしていることにスリルと興奮さえ覚え始めている。たしかに肉体的、心理的な苦痛はある。だが、病気に対し目的を持って力強く応えることに喜びのようなものを感じるのだ。コートでは何度も試合に負けたが、途中で投げ出したことはほとんどなかった。今私は負けつつあるけれど、いい試合をしている」 アッシュが「いい試合」をしてくれたことで、世界は恩恵に与っている。よく知られているのは、92年に創設されたアーサー・アッシュ・エイズ撲滅財団だ。「私にとっての希望は、私には間に合わなくてもほかの人々には間に合う治療法がみつかることです」と述べている。 もうひとつは、やはり92年に発足させたアフリカ系アメリカ人アスリート協会(AAAA)である。アフリカ系アメリカ人の運動選手が学業そっちのけでスポーツだけに没頭し、ほとんどの選手がやがて人生の落伍者となっていく実態に、アッシュは警告を発し続けた。そのことで黒人社会の反発を買いもしたが、怠惰に流れる若者を叱正し続けた。かといって若者の努力放棄を責めるだけではなく、黒人アスリートに対する学業支援、雇用支援のための団体を作ったのである。 ■Days of Grace――静かな闘い 何をするのも辛かった死の前年、家族や親戚とともに感謝祭の食卓に着いたアッシュは、「私は感謝の気持ちでいっぱいだった」と振り返っている。 アッシュの闘いは、不撓不屈にして高貴な精神のみがなし得る「静かな闘い」であった。自伝の原題はDays of Grace。Graceには優雅、品格、たしなみ、潔さ、感謝、恩恵、神の恩寵といった意味があるが、アッシュの人生はまさにgraceだったといえるだろう。 ■娘への手紙 アッシュにとって、愛娘カメラとの別れは何よりも辛いことであった(さいわい、妻ジーンにも娘カメラにもエイズ感染はなかった)。この本の最終章は、幼い娘への愛に満ちた手紙である。その要約を記して、本書の紹介を締め括ることにしたい。 ●困ったとき、迷ったとき、お父さんならどう考えるか、どう言うかを知りたければ、お母さんに聞きなさい。 ●おまえは、奴隷として米国に渡ったアフリカ系アメリカ人の子孫である父の娘として生まれた。おまえは深く根を張った大きな家系樹から芽生えた輝ける若葉だ。 ●人種差別と性差別を、ベストを尽くさないことの言い訳にしてはならない。絶望という誘惑に負けてはならない。 ●どんな人々のなかにはいっても気後れせず、ゆったりうち解けることができる人になりなさい。 ●英語以外に少なくとも2か国語を学びなさい。 ●お金に使われてはいけない。お金は快適な暮らし、教育、家族のための健康保険、困っている人への寄付、非常時のための蓄えに充てなさい。派手な暮らしをしてはいけない。 ●生涯続けられるスポーツを少なくとも2つマスターしなさい。スポーツはすばらしい。一生楽しみをもたらしてくれる。自分自身についてたくさんのことを教えてくれる。自分の感情や性格もわかるし、危機に立った時の冷静な対処、敗北の瀬戸際での反撃の仕方なども身につく。この点でスポーツほど貴重な教訓を与えてくれるものはあまりない。 ●音楽と美術に対する鑑賞眼を養いなさい。 ●時間にふりまわされないようにしなさい。することを慎重に選び、それに全力を傾けなさい。 ●良き配偶者を選び、二人に合ったルールを決めてともに歩み、許しあいなさい。 ●神に祈りなさい。頼みごとをするためではなく、何が正しいことか、神が何を望んでおられるかを知る知恵と、それを実行する意志を祈り求めなさい。 Arthur Ashe年譜 1943年 米国ヴァージニア州に生まれる 1961年 カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)入学 1968年 全米オープン優勝 1975年 黒人として初のウィンブルドン制覇 1977年 ジーン-マリー・ムートゥサミィと結婚 1979年 心臓発作。バイパス手術 1983年 2回目の心臓手術。輸血でエイズに感染 1986年 娘カメラ誕生 1988年 脳手術。エイズ感染が判明 1988年 『栄光への険しい道』(A Hard Road to Glory)出版 1992年 エイズ感染を公表 アーサー・アッシュ・エイズ撲滅財団設立 アフリカ系アメリカ人アスリート協会(AAAA)設立 ハイチ難民強制送還の政策に対する抗議デモで逮捕される スポーツマン・オブ・ジ・イヤーに選ばれる 1993年 逝去(享年49歳) 公式サイトhttp://www.cmgww.com/sports/ashe/index.php ●アッシュの人生に心打たれた方は共感のワンクリックをお願いします。 ![]()
by tennis_passtime
| 2006-06-11 17:24
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