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![]() 左から藤倉二郎(明治大学)、川地実(早稲田大学)、佐藤俵太郎(松岡汽船)。1931年(昭和6年)の写真。 山本茂著『白球オデッセイ-プロテニス第一号 佐藤俵太郎の青春』(ベースボール・マガジン社)を読みました。 佐藤俵太郎は1904年(明治37)、三重県生まれ。恵まれた家庭環境ではありませんでしたが、テニスと出会い、ひたむきな努力で頂点を極めた日本を代表するプレーヤーです。四日市商業、関西学院を卒業して松岡汽船(社長の松岡潤吉は松岡修造の曽祖父)に入社し、デビスカップや世界各地のトーナメントで活躍しました。朝日新聞(東京)運動部に入社後も、テニス記事を書きながらプレーを続行。来日したビル・チルデンに誘われ、32歳でプロテニスの世界に投じました。現役引退後も指導者として長くテニス界で活躍した歴史的プレーヤーです。 俵太郎は1930年(昭和5年)と31年(昭和6年)にデビスカップ日本代表として欧州ゾーンで戦っています。当時のデ杯はどのゾーンにでも出場でき、日本は強化目的で強豪ぞろいの欧州ゾーンに討って出ました。本書の記述の中心は2年にわたる欧州転戦ですが、当時の日本テニスの強さ、世界の広さ、旅の優雅さと困難さなど、いまと比べていろいろな意味で隔世の感があります。 七色のテープが飛び交う別れの港から汽船で出航。日本から遠征する俵太郎を含む2選手(他の選手は欧州在住)に支給された遠征費は3000円(2階建ての家が2軒建つ大金)。寄港する各地で在留邦人の歓迎を受け、エキジビションマッチを行ないながら欧州に向かいます。コーチやマネージャーの帯同はありません。甲板上でランニングや素振りをし、社交ダンスやスピーチに冷汗をかき、各国各界の名士と交流し(青い目の乙女と恋もし)、次の戦場に向かう汽車の切符を苦労して求めながら、欧州各地を転戦し、また長い船旅で帰国するのです。出発から帰国まで8カ月。それを2年連続。気が遠くなります。 戦績はと言うと、1930年はハンガリー、インド、スペイン、チェコを破り、決勝でイタリアに惜敗。31年はユーゴ、エジプトを破りましたが、イギリスに敗れました。デ杯の合間の個人戦では、1930年はデュッセルドルフとジュネーブで優勝。31年はカンヌ、サン・ラファエル、ジュアン・レ・パン、ジェノバ、チェコ、ミュンヘンで優勝。全仏ベスト8。赫赫たる成績です。テニス史に残る有名選手とも何度も対戦し、勝ったり負けたり、いい勝負をしています。 佐藤俵太郎だけでなく、昔の日本テニスは強かった。1890年生まれの熊谷一弥はオリンピックで日本人初のメダルを獲得(1920年アントワープ五輪の単複で銀)。1891年生まれの清水善造はウィンブルドンのチャレンジラウンド決勝に進出。転倒したチルデンに「やわらかなボール」を打ったエピソードが有名です(その真偽はともかく、決勝に進んだことは事実です)。俵太郎と何度も大きな試合を戦った佐藤次郎(1908年生まれ)も海外で活躍しています(1934年の欧州デ杯遠征からの帰途、箱根丸船上から投身自殺したのは残念ですが)。 なぜ、そんなに強かったのか。俵太郎は以下のように分析しています。第一次世界大戦で欧州各国は疲弊しており、デ杯を戦う余裕があったのは米国、英国、日本、オーストラリア、フランスの一部ぐらいであった。熊谷も清水も外国生活が長く、芝コートに慣れていたから戦えた。日本のクレーコートだけで戦っていたら世界では通用しなかっただろう。日本が世界の強国になれた理由は経済力があったからである。 それは事実でしょうが、それなら今の日本は、もっと強くてもいいはずです。私はこの本を読んで、当時の日本のテニス界に立ちのぼる強烈な負けじ魂の空気を感じ、それが強さの根底にあるのではないかと思いました。安易な精神論と言われれば反論はできないのですが。 この本には93歳(出版当時)の俵太郎の日常が紹介されています。孫と朝食を摂り、2つのバスを乗り継いで朝9時にテニスクラブに到着。柔軟体操、ジョギング、200回の素振りの後、気が向くと女性プレーヤー相手に1セット。正午にピラフの昼食を摂り、出会う人ごとに会釈を返しながら午後2時に帰宅。なんとすばらしい老年でしょう。2006年に102歳で大往生。 長い記事になってしまいました。最後まで読んでくださったことに感謝します。 ●ご用とお急ぎでない方は下のアイコンに応援のワンクリックをお願いします。
by tennis_passtime
| 2009-03-11 00:50
| ●読書ノート
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